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オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道

ITmediaニュース:オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (1/5)


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2004/12/17 09:01 更新


ITは、いま──個人論
オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (1/5)
最初は、学生4人でのスタートだった。彼女は取締役、社長は堀江貴文氏。月日は過ぎ、いま創業メンバーはそれぞれ別の道を歩いている。

 最初は、学生4人でのスタートだった。有限会社オン・ザ・エッヂを立ち上げたとき、彼女は取締役で、総務と経理を兼ねていた。目の回るような忙しさの中、インターネット・デザイン関係の山のような仕事をこなした。

 それから8年が過ぎ、いま創業メンバーはそれぞれ別の道を歩いている。彼女――有馬あきこさんは、クリアキューブの代表取締役をしている。




有馬あきこさん

PCが生活の一部だった小学校時代
 自分でも、変わった小学生だったと思う。

 有馬さんの周りには、いつもビジネス雑誌の切り抜きや、経済紙があった。父は、商社勤めをへて30代半ばでアパレル関係の事業を立ち上げた起業家。弟はビジネスに興味がなさそうだったが、彼女はそんなものを読み、仕事に取り組む父の背中を見て育った。

 小学校では、浮いていた。厳しくしつけられ、先生にきちんと敬語を使うような子供だった。その礼儀正しさが、いじめの対象になったのかもしれない。学校にいてもつまらないから、家に帰って本や新聞を読んでいた。

 学校の先生とは、仲良しだった。たまたまプログラムの知識がある先生がいて、BASICを教えてもらったりした。PCに興味を持ち、父親にねだって買ってもらったのが「PC-9801UV2」。「マイコンBASICマガジン」を買って読む、そんな小学生だった。

 中学生の頃は、彼女にとってPCはゲーム機だった。高校では音楽に興味が出て、PCで音楽を鳴らしたりしていた。途中、PCと比較的疎遠になった時期もあったが、大学に入ってMacintoshを買ってから、再びPCに向かうことになる。

 「小さい頃から、PCは日常生活の一部として溶け込んでいた」

創業メンバーとの出会い
 高校生の頃、彼女は風変わりな人たちと出会う。友人グループが通っていた学習塾に通うが、この塾が普通の塾ではなかった。初めて見に行った時の印象は、「戦後のバラック小屋みたい」。

 大学生が講師をしていたが、その“講師”たちはみな集まって麻雀をしていた。壁には「何月何日、役満、誰それ」と張り紙がしてある、そんな雰囲気の塾だった。かといって、講師が全く無能の集まりだったというわけでもない。そこに出入りしていた学生は、みな東京大学の学生だった。

 その学生の1人と、彼女は後にオン・ザ・エッヂを創業することになる。その東大生の名は、堀江貴文。今年、プロ野球界の「老害」を糾弾し、一躍マスコミ界の寵児となったライブドアの堀江社長だ。

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 彼女は直接、堀江さんから授業を習ったことはない。その塾のおかげで、偏差値が上がったのかどうか、実際のところはよく分からない。ただ、その学生たちとの出会いが、その後の彼女の生活に影響したことは間違いない。

 その塾の学生講師たちは、かなりの安月給でやとわれていた。だからみんな、かけもちのバイトをしていた。当時、流行の兆しがあったインターネット関連のバイトに携わる講師もいた。

 ある日、ある企業のインターネットデザイナーが、辞めることになった。PCを扱えて、絵心のある人間はいないか――。そんな条件に合う学生として、彼女に話がまわってきた。

 「その頃の私は、Photoshopを触って3カ月ぐらい。その人間に企業のホームページ作成を頼む、そんな時代だった」

 これが、彼女の初アルバイトだった。バイトに行った初日、いきなり徹夜作業。女の子なのにかわいそうだから……と、職場の人間が寝袋を持ってきてくれた。梱包材をまるめて、枕にすればいいと言ってくれる“優しい”人間もいた。世間を知らない彼女は、「働くというのはこんなものか」と思いながら眠りについた。

 それから半年ぐらい、アルバイトにいそしむ生活が続いた。合格した大学には、全く行かなくなった。ついたあだ名は、「大学のヤンバルクイナ」。めったに見かけない、希少生物にたとえられた。

 やがて、バイト先の上司が変わった。新しい上司は、正社員でないと信用してくれないような種類の人間だった。自然に、その会社を辞めて自分達で仕事をしようという話になった。

 会社を立ち上げるには、資本がいる。出資してくれたのは、彼女の父親だった。ただし、父親は自分の前で事業計画を説明をしてみせろと要求した。これぐらいの仕事を、これぐらいのペースでこなせば、売上はこうなる。今となっては具体的な内容を覚えていないが、なんとか納得がいくようなプレゼンをすると、父親はポンと600万円を出してくれた。――「大学はちゃんと卒業すること」という交換条件をつけて。

 こうして、有限会社オン・ザ・エッヂはスタートした。彼女は取締役で、総務兼、経理。簿記は、経営するならそのぐらい必要だと父親から言われて勉強した。社長は、堀江貴文さん。ほかに東大生が2人加わって、4人で会社を始めた。

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オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (3/5)


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 働きながらの学生生活は、やはり大変だった。学生ベンチャーを面白がり、応援してくれる教授もいたが、理解のある教授ばかりではなかった。

 当時、携帯を持つ学生もまだ珍しかった。その中で、授業中にクライアントからの電話が鳴り響く。そんな時は、彼女はたちまちクラスを追い出された。

 特に彼女を敵視したのが、ゼミの担当教授だった。「あなたに単位はあげません」。そんな電話を、わざわざ自宅にまでかけてきたりした。やがて、彼女は大学をやめる。父親との約束は、果たせなかった。

仕事が軌道に乗る~そして多忙な日々
 一方で、事業の方は順調に伸びていった。堀江さんが駆け回って、仕事をとってきた。

 特に大きかったのは、有名アーティストのWebデザインを手がけたこと。当時人気絶頂だった、小室哲哉関連のサイトデザインを任された。堀江さんが、知り合いの知り合い、といった具合につてをたどって受注に成功した。

 「年末イベントをWebでやるとか、当時としてはムチャな試みもやった」

 濱田省吾やスピッツといったアーティストが所属する事務所の、ホームページ作りも丸請けした。各アーティストのページをそれぞれ作って、同時オープンする。そんな仕事内容を、“デザイナーは実質彼女1人”という状態でこなした。忙しさはピークで、“完徹”(完全徹夜)で丸2日働いた。ひょっとすると、もっと働いたかもしれない。


 会社は順調に成長し、すぐに株式会社になる。やがて、株式上場しようかという話になった。だが、ここで社内の意見に対立が生じた。彼女は、社長である堀江さんの意見にどうしても賛成できなかった。

 「あの時、(堀江さんとは)根本的に違うものを感じた」

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2004/12/17 09:01 更新


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オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (4/5)


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 彼女は昔から、経営方針として「ちゃんとクライアントを見て、きちんと仕事をしていくべきだ」と思っていた。会社が大きくなりすぎると、自分の目の届かない部分も多くなる。それは、自分にとって受け容れられなかった。

 一方、堀江さんは“会社は大きくすべきだ”という考えでいた。意見がかみ合うことはなく、そのまま彼女はオン・ザ・エッヂを去ることになる。

 それから、オン・ザ・エッヂはエッジへと名前を変え、さらに民事再生手続きを申請した無料ISPのlivedoorの事業を引き継ぐ。社名もライブドアに変え、ISP事業者としてネット業界に確固たる地位を築いた。今年のプロ野球参入騒動で、大いに知名度を上げたのは多くの人が知るところだ。

 ライブドアが有名になると、とたんに彼女もマスコミからの取材に追われるようになった。彼女は日頃、テレビを見ない。だから、堀江さんが有名になったといってもいまひとつ実感がわかない。

 いまのライブドアには、オン・ザ・エッヂ当時の創業メンバーはいない。彼女が知っているのは、税理士として関わりのあった宮内亮治さん(ライブドアの前の取締役最高財務責任者)ぐらい。ほかのメンバーは、みな去っていた。彼女にとって、「関係なくなった」会社であり、特にコメントするようなことはない。彼女は、ゴシップ系の取材はすべて断っていた。

 ただし、1つだけこの場を借りて、きちんとしておきたいことはある。堀江さんはその著作の中で、創業メンバーが会社を去っていった当時を振り返り、いろいろな記述をしている。中には、彼女を特定できるかたちで、堀江さんの思い込みで成り行きを説明している文章もある。

 「話を盛り上げようとしたのかもしれないが、説明を読むと事実誤認がある。その点では、先方から謝罪も入っている。重版の際には、該当カ所は削られることになっているが……いつになるか分からないので、それがそのまま事実になってしまっている」

 特にどの表現が、ということではない。全部が、こちらの見方と異なる。彼女は、堀江さんとは今後お互い、その話はしないでおこうと話をしている。

 「けして、嫌な思い出ではない。当時は楽しかった。そして、それぞれ考えが違うと分かったということ。今のライブドアをどう見ているとか、そういったコメントをするつもりはない」

新しい出発
 彼女は、オン・ザ・エッヂを去った。ただ、仕事で培った人脈は残った。彼女に付いて来てくれるクライアントがいた。付いて来てくれる社員もいた。

次ページ:有馬あきこの、「自分の中でのテーマ」

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オン・ザ・エッヂを創業した彼女が歩いてきた道 (5/5)


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 いま、彼女はクリアキューブの代表取締役をしている。「社長」という肩書きは、好きではない。あくまで代表取締役。対外的には、「飼っているペットの“いたち”が社長」だと話している。

 クリアキューブは、Webを企業の戦略にどう活かすべきか、そのコンサルティングを手がける企業。Webデザインはもちろん、システム面も担当する。ハウステンボスのサイトや、「サイボウズ Office 6」のデザインなどがクリアキューブの手がけた仕事だ。携帯向けの4コマ漫画コンテンツなど、一風変わった事業にも取り組んでいる(5月19日の記事参照)。

 会社には、正社員のほかに「フェロー」と呼ばれる準社員がいる。カメラマンやライターといったクリエイティブな専門家のことだが、彼らを含めた合計15~20人ぐらいで仕事を回している。営業担当は、いない。つきあいで仕事がまわってくる会社だ。

 彼女は自分の経営者としての能力を判断すると、自分の目が届くのは20人程度だと思っている。その範囲内で、きちんといいものを作りたいと思う。そして、「クライアントも、社員も楽しくすごせる会社にしたい」。




EPSON Webプリワールドのサイトでは、プリントアウトして作れるペーパークラフトのデザインも行った

――あなたにとって、ITとは?

 「私にとってITとは、空気のようなもの。あって当然で、そして不安定な存在。ITをどうとらえるかにもよるけれど、時間のベクトルで見るとまだ成熟していない」

 そんなITの中で、“いかに誠実であるか”が自分の中でのテーマだと、有馬あきこさんは思っている

  by super_shinka2 | 2004-12-24 12:30 | 仕事

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